素描

 真夏のスーツ。

「もしも差し支えが無かったら」と彼は控えめに切り出した。「なんでしょうか」と私は答えた。 「腕を組んで歩きませんか」「腕を」「おかしいですか」「いえ、おかしくはない、と思いますけれど」「いや、やっぱりやめましょう。暑いですし」 「ええ、ぜひ…

 「ただいま」 ―― Welcome (back), my darkness.

彼が出て行って、一週間が過ぎた。私はいつも通りの生活を続けていた。少なくとも、表向きは。いくつか変わったことがあったとすれば、狭いベッドで好きなように手足を伸ばして眠れるようになったことと、食事のことを考える必要がなくなったこと、そして夜…

 北青山、午後六時。

そのことを知ったとき、回復の段取りはほとんど完全なかたちで目の前にあった。私はとても疲れていて、不安だった。でも(かろうじて)まだ絶望してはいなかった。この数日のあいだに、ここ一年半ほどの月日をかけて自分が食い潰してきた幻想のようなものの…

 ボート 10.01.10

「これはとても大事なものだで、お前にやるわ」って言ってね、こーんな小さいもんをくれたんだわ。ほんでもね、なーんもあーへんもんで、わしが下にほかってね、ほしたらたまーに見えるもんでね、そういう動作がたまーに見えるだね。「ほい、何でほかるだ」…

 県道192号幻想。

季節はいつも冬。私は頬の赤い三つ編みの女の子で、歳は14歳くらい。中学校の制服は紺色のブレザーに膝下のプリーツスカート。ネクタイはなし。白いスニーカーに白い靴下をはいて、マフラーと手袋をして、自転車で学校に通っている。吐く息は白く、でも寒く…

 笑いなさい私の娘よ cc.02

いつか誰か複数の人間が間違った名で呼ぶでしょうあなたをその時にはきっと笑いなさい娘よ

 いまは亡き王女のためのエチュード。 cc.01

あるとき彼女はふと思う。あたりを見回してふと思う。色とりどりに咲き乱れていた花はどこへ行ったのだろう。うるさいほどに囀っていた小鳥たちはどこへ行ったのだろう。乳母は、召使は、従者は、道化は、詩人は。みんなどこへ行ったのだろう。彼女は突然ひ…