北青山、午後六時。

そのことを知ったとき、回復の段取りはほとんど完全なかたちで目の前にあった。私はとても疲れていて、不安だった。でも(かろうじて)まだ絶望してはいなかった。この数日のあいだに、ここ一年半ほどの月日をかけて自分が食い潰してきた幻想のようなもののことを――それはいつのまにか底をついていたばかりか負債に変わりつつあった――嫌というほど思い知っていたし、体勢を立て直すために使った醜い手段は確実に心と身体を蝕んでいた。でも、それでもまだ、絶望してはいなかった。まだ何とかなる。これはもしかしたら最後の機会かもしれないけれども、ここをなんとかして乗り切ることができれば、私はもう少しよりよく生きることができるかもしれない。これ以上しくじりさえしなければ、むしろ良いきっかけになるかもしれない。そんな風に考えていた。私の手元には、役に立ちそうなカードは一枚も残っていなかった。仕方ない。クラブでもダイヤでも何でもいい、もういちど集めるしかない。2(Deuce)からでいい。注意深く慎重に、もういちど集めるのだ。とうぶんのあいだ、ひとつも失敗はできないことはわかっていた。それがプレッシャーではないと言ったら嘘になる。が、見誤らなければ良いだけの話だと思った。優先順位を付けること、怠けないこと、焦らないこと、そして絶対に自棄をおこさないこと。

私は保守的で環境の変化に弱く、その上おそろしくわがままで自分本位な人間だった。私は私の生活を、精神を乱す出来事を恐れ、ひとたび何かが起これば取り乱し、悲しみ、最終的には憎んだ。何かを、何ものかを、それを成り立たせるすべての要素を。深く。限りなく深く。そして同時に、そのような自分の心の動きを恥じていた。いつも。本当に?

まず最初に、目を見て挨拶をする。それから問いかける。恐れずに、そして、謙虚に。それは決して、いままでのような動機からではなく、真に誠実さに裏打ちされた感情の発露であらねばならない。すべての行動はその源に敬意を秘めていなければならない。うまくいくかもしれない。いかないかもしれない。おそらく私の思うように事は運ばないと思う。でもあきらめない。私はもう決めたのだから。あとは意志の力で全うするしかない。それは物事をあるべき姿に構築しなおす最善の方法であるとともに、私にとって唯一の、回復の手段なのだから。

はっきりと決めてしまったあとでは、心はいくぶん軽くなったように感じられた。私は待った。最大限に自らを鼓舞しながら、それでいて、どこか穏やかな気持ちで私は待っていた。

でも、物事はそう簡単には運ばなかった。まず、私にとって不必要な(少なくともその時その瞬間に触れるべきでない)情報に、まったく無防備な状態で接してしまった。知りたくなかった。そのようなかたちでは。何も。ひとかけらも。不注意だった。それは私を深く失望させた。事象が私を失望させたのではない。私は私自身の軽率さに打ちのめされた。本当にやりとげるつもりがあるのなら、少なくとも数時間はその出来事を先延ばしにできたはずだった。それよりもずっと大切なことが、やらなければいけないことが、数え切れないくらい目の前に積み重なっていたのだから。私は集中していなかった。そのことが私を失望させた。深く。

それから静かな悲しみが満ちてゆく潮のように私の身体をゆっくりと包んでいった。私はそのときに起こったことを丁寧に両手に捧げ持つようにしていちど戦線を離脱した。そして何か、めずらしいものでも見るような気持ちで手の中にある何ものかを眺めた。いったいこれは何だろうと思った。まるで凍り付くように冷たい何かだった。冷たくとがった何かだった。出来事はもはやそれ自体の意味を失っていて、何か別のものに変質しはじめていた。私はそれを、見たことがあると思った。それほど遠くないどこかで、経験したことのある(そしておそらくは苦痛を伴う)何かだと感じた。私はそれを私の心に静かに打ち込んだ。癒えていないのだと思った。こんなことは馬鹿げていると思いながら、私はもういちど自分自身に傷を付けることを選ぶ。そして思う。「私はまだ癒えていないのだ」と。

それからあとに起こったことで書き残しておくべきことはほとんどない。私は失敗した。敬意も誠実さも手段も、動機さえもどこかに消し飛んでいた。私はひどく動揺していて、思考はほぼ完全に停止していた。まず最低限、涙をこらえた。それから必要なことを伝えた。できるだけ簡潔に。そして詫びた。最近のこと、少し前のこと、これまでのこと、私にはもうそのくらいしか力が残されていなかった。

ある高名な(そしていくぶん軽薄さを併せ持つ)占い師が言っていた。「将来について考えすぎるのは賢いことではない」と。そうかもしれない。私はいま、おそらく錯覚だとは思うのだけれど(いつものように)、絶望に似たもののふちに立っているように感じている。ほとんど何もかもをあきらめたいという誘惑に捕えられかけている。私の見通しは限りなく甘く、安っぽい作りものだった。根拠のない夢物語だった。私はとても混乱していて、失望していて、何ひとつあるべき場所に戻せないような気持ちがする。いったいどのようにして、それがいかに上辺だけの軽薄なやり方だったとしても、いったいどのようにして、何を終わらせるべきだろうか。何もできない。始めることもできなければ終わらせることもできない。うっすらと笑いがこみあげてくる。

暗闇の中で電話が鳴っている。ほとんど惰性で通話ボタンを押す。虚無の底から暗黒の声がする。それは明るくて暗く、冷淡であたたかい。私は今日、その人のことを考えていた。私は彼にささやかな頼みごとをする。

液晶。この、残酷なもの。私の限りない愚かさと浅薄さ。音。暗闇を伝わってくる、静かな、人の、声。何もかもに意味があり、何もかもに意味がない。知らなくていいことを知る。いくつも。たとえば先週の金曜日の夜に起こっていたこと。あるいは完成することのない物語の構想。永遠に語られることのない言葉。私の失ったものもの。


ひんやりとして、春。夕暮れてゆく空。もうすぐ三月が終わる。