「ただいま」 ―― Welcome (back), my darkness.

彼が出て行って、一週間が過ぎた。私はいつも通りの生活を続けていた。少なくとも、表向きは。いくつか変わったことがあったとすれば、狭いベッドで好きなように手足を伸ばして眠れるようになったことと、食事のことを考える必要がなくなったこと、そして夜、明かりを点けずに生活していることくらい。東京の夜は明るい。青白くつらなる街灯、雨に滲む駅前のネオン、操車場を照らす水銀灯、そして、月。それらは思いのほか淡く、やさしい光を私の部屋に届けてくれた。
「明るいなあ」私はつぶやく。夜眠りに就く前に、彼が毎晩そうしていたように。
ひとりで暮らすことなんてできないと思っていた。家事は苦手だし、ほうっておけば何も食べないし、いくらでも夜更かしをして、朝は一人では起きられない。生活が破綻するのは時間の問題だと思った。それに何より、私たちは七年間二人きりで暮らしていたのだ。部屋にはいたるところに彼の痕跡があり、彼が「ここにいないこと」は彼が「どこかにいるということ」をよりいっそう私に意識させるだろう。私はきっとさびしくてたまらないだろう。そういう風に思っていた。

目が覚めたとき、それはダイニングの椅子の上にいた。起き上がろうとして強いめまいと頭痛に襲われる。サイドテーブルにマグカップが転がっている。私はマグカップでワインを飲むのが好きなのだ。ひとりになって初めての金曜の夜、何かそれらしいことをしようと思って羽を伸ばし過ぎた。
「ちくしょう」声に出さずに悪態をつき、両手で頭を押さえながらそれを眺める。こちらに半ば背を向けるようにしてうつむいているそれは、以前よりも少し、小さくなったように見えた。こいつが最後に私のところへ来たのはいつだっけ。思い出せない。側頭部がずきずきと痛み、左の眼から涙がひとすじ流れて落ちる。
のろのろと立ち上がり、ゆっくりとそれの後ろに立つ。
「何しに来たの」意図したよりもずっと冷たい声が出た。
それはうずくまるように丸くなっている。椅子の足を蹴る。じっと黙ったまま動かないそれをみて私はほとんど一瞬で激昂し、怒鳴った。
「何しに来たのかって聞いてるのよ」
返事はない。それを持ち上げて滅茶苦茶に揺さぶりたい衝動を抑えながら私は言った。
「あの人ならいないわよ」
「知ってるよ」蚊の鳴くような声でそれは答えた。


一週間分の洗濯ものを拾い集めて洗濯機に突っ込み、マグカップとワインの空き瓶を水ですすぎ、コーヒーを淹れるための湯を沸かす。ひとりでいることにはあっという間に慣れた。いつのまにか、私はひとりでも生活できるようになっていたのだった。それなのに、こいつときたら。
「泣いてると思ったんでしょ」
「思ってないよ」
「嘘をつかないでよ」
「思ってないったら」
それが初めて目の前に現れたとき、私は17歳だった。ある晩、布団に入って明かりを消したら、夜の闇がいつもよりも一段深くなったように感じられた。その時は気付かなかったけれど、それとこいつは同じものだ。たまに現れる。知らないうちにいなくなっている。忘れたころに必ず現れる。
「あんたも飲む?」
「うん」
「ブラックよね? もちろん」
「うん」
私とそれは向かい合ってコーヒーをすすった。高校生のころ、私は夜が怖かった。夜と、周囲を取り巻く底知れない闇が怖かった。いまはそれほどでもない。たぶん。
「100日目だった」
「うん」
「100日がんばった」
「知ってる」

「おかえり」とそれは言った。
「あんたこそ」
「そうだね、うん、ただいま」
返事をするかわりに私はにっこりと笑った。そしてとなえた。
「Welcome (back), my darkness」