真夏のスーツ。

「もしも差し支えが無かったら」と彼は控えめに切り出した。「なんでしょうか」と私は答えた。
「腕を組んで歩きませんか」
「腕を」
「おかしいですか」
「いえ、おかしくはない、と思いますけれど」
「いや、やっぱりやめましょう。暑いですし」

「ええ、ぜひ」と私は答えたかった。けれど即答できなかったのは、私はこれまで誰かと ―― 誰かとじゃない。「男性と」だ ―― 腕を組んで歩いたことなどいちども無かったし、それをするには私の背が少しばかり、高過ぎるのではないかと考えたからだった。
「もしも差し支えが無かったら」
私は控えめに切り出した。
「手をつないで歩いていただけませんか」
「では、そうしましょう」

彼から電話がかかってきたとき、私は一日の勤めを終えて自宅近くの駅に降り立ったところだった。日が暮れてから数時間は経っていたけれど、空気はまだ、じっとりと重く暑かった。「いまどちらですか」という問いに答えられずにいると(居場所を伝えることがあとに続く言葉をさえぎる可能性を私は恐れた)「これから少しお目にかかれませんか」と彼は続けた。
「どちらにお伺いすればよろしいでしょうか」
「××に」
「30分でまいります」

私と彼はこの日の午後、ずっと同じ場所にいた。ついさっきまで。私は滅多に着ることのないスーツに落ち着かない気持ちで身を包み(その姿を見た同僚は「まるで生保レディーね」と笑った)、ささやかな「影」として彼の後ろをついて回った。彼と私とが言葉を交わすことは無かった。最初から最後まで。ひとことも。それでも私はこの日の「影」に、彼が私を指名してくれたことだけで舞い上がっていたし、とても名誉な気持ちだった。
約束の駅にたどり着いたとき、時計は夜の9時近くを指していた。暑かった。彼はいちど家に戻ったものと見え、別れたときのスーツ姿ではなく、すっきりとしたチノパンツに淡い色合いのポロシャツという涼しげな(そして見慣れない)出で立ちに変わっていた。私は約束の時間に化粧を直す暇を計算しなかったことを悔んだ。
「お待たせいたしました」
「いや僕もいま来たところだから」
「申し訳ありません」
「こちらこそ、遅くにお呼び立てしてすまなかった」
「とんでもない」

とんでもない、と私は思った。そして続けた。嬉しいです、と。心の中で。
「あなたが何も食べていないことが気になって」と彼は私を駅にほど近い日本料理屋に連れて行った。そして私に簡単なコースを頼み、自分はビールと冬瓜の煮たものを注文した(「あなたは飲みませんね」)。私たちはひっそりと食事をした。途中で私はスーツの上着を脱ぎ、シャツの袖を折り返したように思う。
「食べますか。冬瓜」
「はい」

冬瓜はひんやりと冷えていた。
「僕には娘がいます」
「はい」
「あなたと同じくらいじゃないかな」
「そうですか」
「なかなか・・・・・・てね」

なかなか片付かない。そう、それは、私もだ。なかなか片付かない。
店を出ると表は人通りも減り、明確に夜だった。「××と××、どちらも同じくらいの距離だけれど」と駅の名前をふたつあげて彼が尋ねた。繁華街と逆の方向にある駅を私は選んだ。それから私たちは歩いた。身体にまとわりつくぬるま湯のような空気の中を。ゆっくりと。私は左腕にかばんと上着を持っていた。
「もしも差し支えが無かったら」と彼は控えめに切り出した。「なんでしょうか」と私は答えた。
腕は組めないと私は思った。私はこれまで誰かと腕を組んで歩いたことなどいちども無かったし、それをするには私の背が彼よりも少しばかり、高過ぎるのではないかと考えたからだ。
結局、地下鉄の駅を二駅ぶん、私たちは歩いた。「遠くまで歩かせてしまって」と私が言いかけると、彼は構わないというしぐさでそれをさえぎった。空いているほうの手 ―― 右側の手だ ―― の人差し指を斜めに動かして「ここをこうやって突っ切ればすぐだから」と。駅の入り口で私たちは別れた。私は階段を半分ほど降りたところで立ち止まり、地上へと引き返した。そして彼が交差点を横切って去ってゆく後ろ姿を眺めた。彼は振り返ることなく、軽快にも見える足取りで大きなビルの陰へ消えて行った。有名な機械メーカーの本社の建物だ。私はそれ以来今日まで、いちどもスーツを着ていない。